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軍師官兵衛 2014 大河ドラマ [ドラマ]





2014年のNHK大河ドラマが『軍師官兵衛』
に決定し、キャストの発表がありました。

主人公 黒田官兵衛役にはV6のの岡田准一さんに決定しました。

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その他の主な役どころは
黒田官兵衛の正室・光(てる)役に中谷美紀
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主人公黒田官兵衛を発掘し、羽柴の軍門に導いた竹中半兵衛役に谷原章介
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黒田官兵衛の最初の主君小寺政職役に片岡鶴太郎
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秀吉の正室おね(ねね)役に黒木瞳
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小寺家家老で、黒田官兵衛の父 黒田職隆役に柴田恭兵
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幽閉された官兵衛に生きる希望を与える女性・だし役に
桐谷美玲さん

なんでも桐谷美玲さんお起用理由は
「絶世の美女だから」
だそうです。
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『黒田官兵衛』といえば
豊臣家のみならず、主君である秀吉が仕えた『織田信長』や、秀吉没後の
『徳川家康』を支えた名軍師とされています。

この軍師 黒田官兵衛がいなければ秀吉の天下統一はなかったとされています。
それまで、羽柴家の軍師といえば、稲葉山城(現岐阜城)を16人の部下を率いて
1夜で陥落させた逸話で有名な竹中半兵衛
であったが、四国征伐の若干36歳で最中に病没。
その後の軍師を引き継いだのが『黒田官兵衛』なのです。

妻夫木智が直江兼続を演じた『天地人』や、
上野樹里が浅井三姉妹の『江姫』役を演じた『江~姫たちの戦国』
で黒田官兵衛にかんする描写が少しあったが、今回やっと『黒田官兵衛』
にスポットを当ててくれた。
直江兼続があるなら、黒田官兵衛はじきにあるだろうとは思っていましたが。

正直 昨年の『平清盛』や、今年の『八重の桜』はかなり視聴者を手放している
大河ドラマですが、これで巻き返せるでしょうか!?

このキャスティングにこの『黒田官兵衛』を主役にしたことで、
興味を持ち、年明けの1話・2話あたりは視聴率が上がることが予想されます。

天地人や、江、龍馬伝のころの視聴率を戻せることにかけたのが『黒田官兵衛』だった
と思いたいものです。

(黒田官兵衛孝高(よしたか)
1546年、播磨国姫路城で誕生
父職隆(もとたか)は御着(ごちゃく)城(兵庫県姫路市)の城主・小寺政職(まさもと)に仕え、
姫路城を預かる家老で、孝高もその地位を引き継ぎました
戦場で常に合子形(ごうすなり)のかぶとを着けていた孝高は、「赤合子」と敵に恐れられたそうです。

1577年、織田軍の中国攻めが本格的になり、秀吉を総大将として派遣。
その時に従軍し、秀吉から直筆の手紙を官兵衛にあて、
「おまえは弟の小一郎(秀長)と同じように心安く思っている」といわしめました。
中国計略にも大きく貢献しました。

その黒田官兵衛の人生の中でもっとも苦境であったであろう幽閉事件が起こります。
荒木村重が織田家に謀反を起こし、その翻意を促すために有岡城(兵庫県伊丹市)に
に向かうのだが、とらわれとなり、幽閉されてしまうのです。
村重は、織田家に人質(松寿丸)を送っている官兵衛は織田家に内通していると疑い、
官兵衛を幽閉してしまいます。以後、官兵衛の幽閉生活は1年にもおよび、
その間に足が不自由になったとされています。

織田家中では帰ってこない官兵衛に対し、主君と同じように寝返った疑いを向けられ
松寿丸を殺害するよう秀吉に命じます。
しかし、官兵衛を見出した竹中半兵衛は
「上様(信長)の命とはいえ従うことは出来ない」とし、松寿丸を半兵衛の領国・美濃菩提山城に隠し、
信長へは「松寿丸は殺した」と報告します。
それから間もない1579(天正7)年6月13に竹中半兵衛は病死してしまいます。
そしてその時助けられた松寿丸は、『黒田長政』
として戦国乱世の世に大きな影響を与えることのできる武将にまで成長を遂げ、
信長・秀吉・家康のもと天下統一のため活躍していきます。

1582年、明智光秀の起こした『本能寺の変』で落胆する秀吉に
天下統一を助言したのはこの黒田官兵衛でした。
世にいう「中国大返し」です。
合戦の最中にあった毛利方と和睦し、かつ、信長が没したことを悟られないように
謀ったこの官兵衛の軍略はさすが!!です。
これを機に見事秀吉は天下統一を果たすこととなります。
関ヶ原の戦いにおいての黒田氏は当主・長政が家康の養女を正室として迎えていたことから
秀吉の死去前後から家康に与し、長政は豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み
後藤基次ら黒田軍の主力を率いて家康に同行、関ヶ原本戦で武功を挙げた。

官兵衛の晩年は関ヶ原の合戦の後、長政が先に勲功として家康から
筑前国名島(福岡)37万石(再検地後の申請は52万3,000石)への加増移封となった。
翌年、如水にも、これとは別に上方での加増が提示されるが辞退し、
その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送った。
晩年は再建に努めた太宰府天満宮内に草庵を構えている。
慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見藩邸にて死去。59歳。

史跡としては、黒田氏発祥とされる【滋賀県長浜市】
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長浜観光協会

長政との親子二代で築いたとされる【福岡市】
黒田家は、名島城(東区)に代えて新城を築き、先祖の故地・備前福岡(岡山県瀬戸内市)にちなんで
福岡城と名付けたとされています。
官兵衛は城の完成を見ずに没してしまいます。
福岡市HP


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